ブラジル風バッハ第六番(エイトール・ヴィラ=ロボス)

 二〇〇一年八月一日、私は、神戸に行った。神戸国際フルートコンクールの審査員として来日するヴィセンス・プラッツ・パリースと会う為だった。夕方、ハーバーランドニューオータニのロビーで韓国から着いたばかりプラッツと会い、九月の演奏会の打ち合わせをした。「ブラジル風バッハ第六番」の演奏が決まった。
 神戸国際フルートコンクールは、日本が世界に誇る素晴らしい催し。その夜開かれた「前夜パーティー」には、キラ星の如き審査員が顔を揃えた。そして、世界各国からの若者達。この中から明日のスターが生まれる。ベルリンフィル首席奏者のパユや、十六年後に審査員となって神戸に戻って来たプラッツのように。プラッツは、リュカと共にパリ管を支える首席フルート奏者。カタローニャ出身のスペイン人だ。常に異国に身を置く彼からは、異文化に対する柔らかな気持ちが伝わってくる。
 九月終わり、テロ後の緊張の中で開催されたスーパーワールドオーケストラの為にプラッツは東京に来た。帰国前夜の室内楽コンサートで「ブラジル風バッハ第六番」が演奏された。「ブラジル風バッハ」という面白い名前の連作は、ヴィラ=ロボスが自国ブラジルの音楽をヨーロッパ的手法で料理した九曲から出来ている。第六番はフルートとファゴットの曲。初めて聴く人にも懐かしさを感じさせるそのメロディーが、プラッツとファゴットのTさんの豊かな響きに乗って近江楽堂に拡がった。不思議な魅力が観客の心を捉え、会場に夢のような時間が流れていった。
 帰りの車の中で、私は、三年前に勧められた本を遂に読んだとプラッツに話した。その本の名は「絹」、「海の上のピアニスト」を書いたバリッコの作品だ。鳥の飛び立つ音や、木のそよぎ、衣擦れの音など、音楽家だというバリッコの音の描写は実に素晴らしい。
 「絹」には、人間の心に潜む未知なるものへの想いが描かれているが、それはヨーロッパ人の日本への憧れの姿で現れる。「絹」の舞台は日本だと言うプラッツに、私はムキになって反論した。「小説の舞台は日本に似た夢の国。そこは決して行く事の出来ない場所、だからこそ美しいのだ。」と。小説の中の美しい風景が日本では既に失われたという理屈を付けたが、本当は、作者の強い思い入れに当惑と気恥ずかしさを感じていたからだった。
 コンクールなどの国際的な催しが頻繁に行われ、情報が瞬時に世界を回る時代になっても、未知のものへの憧れは人の心に棲んでいる。その憧れに動かされて、私は「ブラジル風バッハ」を選び、バリッコは「絹」を書いた。盆栽や能楽に惹かれるフランスの友人が居るように、日本とヨーロッパの関係は日本側の片想いでは無いらしいが、「絹」の中のヨーロッパ人の憧れを受け止めるのは照れ臭かった。今は、自分の過剰な反応がちょっと恥ずかしいけれど。
 七月にプラッツが来日する。未知の味に興味津々の彼の次のターゲットは蒟蒻、次回は蒟蒻を肴に乾杯しよう。彼が、日本は美しい国だと思い続けてくれる事を祈って。

のせゆりこ(コンサートオーガナイザー)
コンセール・パリ・トーキョウ主宰。東京芸術大学卒業後渡仏。九七年より日仏音楽交流の為の演奏会等を企画。ヴィセンス・プラッツ・パリースはスーパーワールドオーケストラの為に七月に来日。

神戸ハーバーランドニューオータニ
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